全てのインプロは許されている

「全てのインプロは許されている」
「全てのインプロが良いわけではない」

という命題に出会った時に、前者に重きを置くか後者に重きを置くかによってインプロに対する態度はかなり違ってくると思う。

僕は少し前までは後者に重きを置いていた。その時は「パフォーマンスとしてのインプロ」というものに強く興味を持っていたため、その流れとして「良いインプロ」を目指していた。

その結果、自分のインプロはだいぶうまくなったように思う。特に演技術に関する本を中心に演劇の本をまとめて読んだこともあり、いわゆる演劇的なシーンを作る力についてはかなりついたように思う。

けれど、それでインプロが(自分にとっても、人にとっても)楽しくなったかというと、それほど楽しくはならなかったように思う。

最近では、この逆の方向からインプロを考えている。つまり、まず楽しいということを第一にし、それがうまさにつながり、そしてパフォーマンスとしても良いインプロになる、という流れだ。

そしてこう考えたときに、「全てのインプロが良いわけではない」ということよりも「全てのインプロは許されている」ということの方が重要であると思うようになった。

「全てのインプロは許されている」ということを本当に信じられるようになれば、自由に遊ぶことができる。もちろんその中でも「こうしたら良くなる」と思うことはあるけれど、それは「こうするべきである」という正しさではなく、「別にこうしなくてもいい」という許しの上にある提案に過ぎないのだと思うようになった。

そもそも、今「良い」と思っているものが本当に良いのかということ自体が疑わしい。僕は興味深いシーンというものを、以前はいわゆる演劇的なシーンのことだと思っていたけれど、それは様式としての「興味深いシーン」に過ぎなくて、今はむしろ「これを面白いと思えるんだ!」という発見があるようなシーンを興味深いと思うようになった。

インプロは今の自分が想像しているよりも、もっと面白くなる可能性を秘めている。そしてそれはうまさよりも遊び心によって発見される。僕はそう考えている。

1985年横浜生まれ。東京学芸大学に在学中、高尾隆研究室インプロゼミにてインプロ(即興演劇)を学ぶ。大学卒業後は100を超えるインプロ公演に出演するほか、全国各地において300回を超えるワークショップを開催している。2017年にはアメリカのサンフランシスコにあるインプロシアターBATSにてワークショップおよびショーケースに参加。またアメリカのインプロの本場であるシカゴにも行き、海外のインプロ文化にも触れる。 →Twitter